オヤジ45才、再出発のブログ。

45才のポンコツ映像ディレクターがこれまでのダメダメ人生をさらけ出して、再出発を目指すブログ

45オヤジ、友に嫉妬する。

暫く会っていなかった友人が突然、バリスタになると珈琲屋をオープンさせた。子どもを信じる事を心から誇りにしていた彼は、それまで多くの子供たちに愛される教師だった。

 

たまに酒を酌み交わす事があっても、ただひたすらに子供たちは素晴らしいと言い続けていた友人。日本の制度がおかしい!と上に対して憤っている事が常だった。そうやってその時を一所懸命に生きてきた彼の店を訪ねると、やはり愛されていたんだと納得させる人の出入りだった。教え子や新しくできた仲間たち、そして数多くの客。


同じ45年間の人生で、全てが繋がり店が賑わっている事に、私は猛烈に嫉妬した。と共に私の人生を顧みる結果となった。私はこんなにきちんと人と繋がって来たか?


人生は長い。結局は「人間性」が大きくものを言うのかもしれない。向かい風に立ち向かう事なく、いつも向きを変えて来たように思える私。嫌われたくない、そんな風に生きて来たのかもしれない。ぶち当たる事を恐れ、常に言い訳を作り、自分を肯定する事ばかりして来た結果がこれだ。周りに何も作れてない。。

私に何があるのか?

何もない。友に先を越された焦りばかり。

変わらなきゃ、変わらなきゃ、そんな想いばかりが胸に木霊してくる。

早く前に一歩進みたい。でも食べる銭を稼がないといけないという現実。家族を作ったという責任。昔の人間と笑う人もいるだろう、家のローンだってまだまだある。。


大概のオヤジってのはこうなのだ。現況に縛られていると考えたいのだ。同じ場所をぐるぐると回り続ける思考。考えるな、と思えば思うほどそのカオスに堕ちていく。


店にいた時、カウンター越しに刺激を受けた私は彼にやりたい事を話した。「オレ、こんな事やりたいんだ」、言ってはみたものの、激しい劣等感にかられた。


翌日、友人からその言葉に対してのメールが届いた。

「昨日は変わらぬ笑顔をありがとう。お前はやっぱり人の心を動かす仕事を続けたいって事なんだなぁ、かっこいいよ」

山手線の吊り環につかまりながら、私は涙がこぼれて止まらなくなった。ちっともかっこよかぁない、何も進めていない。お前は一歩も二歩も進んだというのに。。

友の優しさと自尊心と不安と家族への想いと、色んなものがごちゃまぜになって胸を締め付けた。

進まなきゃ、覚悟を決めなきゃ、そう思った。

さあ、一歩進むのだ。




45オヤジ、8年の仕事を辞める。

皆がどのように仕事をしているかはよく分からないが、一本の映像を作る毎に、ギャランティを貰う、というのが私の仕事だ。だから稼げる月もあれば稼げない月もあり、バラついている事が多い。
そんな中で定期的に受けられる仕事として、テレビ番組を自ら志願して請け負ったものがあった。
それは最近まで続き、8年も続けてきた。番組が肌に合っていたようで、とても気に入った事もあり、これからも長く続けて行きたいと思っていた。が、、、

私はその仕事を辞めた。

それはかなり労力のいる事だった。しかし、将来をきちんと見つめてどうにかしていかねばと思っていた時期だったので、そうせねばならない事だったのだと今は思える。


この番組を始めた頃、番組制作はとても楽しく、全てが面白かった。日本全国だけでなく、海外にまで行かせて貰い、様々な場所を訪ねる事ができた。それが2年程前から、趣味嗜好が全く合わない局のプロデューサーが番組の頂点となり、状況は一変した。

このプロデューサー(以下P)に無理難題を言われ、常に文句をつけられ、考えを押し付けられるようになったのだ。

テレビ番組作りは基本、クライアント→局→制作会社→私のようなディレクター(会社員の人もいるが)への発注となる。あまり揉め事を好まない私は、このPの意見に反対意見を述べること無く、はいはいと注文を聞き続けた。
これは、そのPが数年前にも同番組に着任しており、物凄くやり合った経験があり、それでもこちらの考えを1ミリさえも譲歩してくれなかった事に由来する。(そのPはその後、一度番組から去った)

当時、映画作りから働き始めた私は、監督の考え、演出法は基本的に柱となり、それに従って皆が進めていくべきだと思っていた節があり、その事によって揉めてしまった。ただ揉めて以来、これはテレビだと考えを変え、面倒くさいので、そうですね、と従っていた。。。
(実は、テレビ業界はディレクターと言い、映画業界は監督というのは、この部分の意味が大きい、その話はいつか)

これがその後、自分の心を蝕む結果になるとは全く思っていなかった。

徐々に意見する間口が狭まっていき、どんどん自分の意見を言えなくなり、やがて言われたまま、全てをこなすようになっていた。

多分、そういう人、多いんじゃないかな。ここはいいや妥協しとこう、って思い、やがて自分の世界をせばめていく感じの人。。。(と思っているのがダメなディレクターの一端かも)

この事が歪んでいく原因となる。
最近、話題になっている元官僚の古賀氏もこの事を声を大にして言っている。発言をやめれば、社会によって自分が変えられてしまうぞ!って。

養老氏の「バカの壁」にもあったが、自分なんて元からあるのだ、完全にイエスマンになんてなれる訳がなかった。何かが違うなと思う違和感が、日に日に大きくなっていった。

そんな仕事をもう辞めてもいいのではないか、と思ったのは、今でも蘇るPの言葉である。

「俺の30年をバカにするのか?」

心にできているストレスをなんとか無くそうと、自分の思う事を言おうと決心で臨んだ会議。私が「そうは思わない」と言った事で、Pが激昂する。それは心から出てきたPの言葉だと思う。
「俺の30年をバカにするのか?」
あまりの唐突な物言いに私は戸惑い、
そして、このPは周りに認められてないのかもしれない、このPと一緒にやっていても視る人達が楽しめるものなど作れる訳がない、と思うようになってしまった。
(要は自分の意見が正しいとだけ思っているPの判断で作られている放送が、そこら中にあるという事を理解して欲しい。民放は文句をつけても変わらない。そんな人達の耳に声が届くとは到底思えない)

そんな頃に以前同番組を一緒にやっていた女性プロデューサーに運良く、そして偶然に私は出会った。この人は自身のポジションをしっかりと考え、大きく仕事の流れを見る人だった。思わず私はその人にすがりついた、
「あのPが昔よりも凄いことになっています。もうイジメですよ、イジメ」
すると、その人は膿で溜まりに溜まった私の心を開いてくれた。

「もう辞めなさい。あの年齢で何を言っても変わらないわよ」

涙が出そうになった。
神かと思った。
有り難かった。
私の考えがおかしくないと認めてくれる人もいたのだ。。
男性社会にいると、こんな意見多分聞けないだろうと思う。叩き上げが全てと思っているド阿呆な男どもには無い発想だと私は思う。「それぐらい普通だろ」「俺なんか昔は…」「若いなー」こんな事、後輩に言う輩からは絶対に転換の発想は生まれない。

そうだあのPに何を言っても何も期待できない、変わるからには私が変わらねばならない。変わる為に何かを捨てねば!それで私も変われるんだ!

そして、、
辿り着いた答えが8年続けた番組を辞める事だった。
断捨離、そして
新たな道を進むためのステップ。

スタッフから、辞めないで、なんとかならないですか?なんて言葉も頂いた。
でも辞めなければ何ともならないと思った。
だって、自分の考えを解放することの出来ない仕事なんて、これっぽっちも楽しくないんだもの。。。

捨てたおかげで、心がリフレッシュし、体が軽やかになった。大会社にすがりついていた自分が馬鹿馬鹿しくおもえた。

そしてその事から、自分は変わる人間に一歩近づいた、やれる人間なんだと力も少しずつだが湧いて来た。


柔軟さが無くなったら人はアウトだ。自分の嗜好を後進に押し付けるのもアウトだ。そして、しがみつき続けるのはもっとアウトだ。

もともと、この番組を続けていく事が、自身のスキルや将来に繋がっていくのか?と常に不安要素としてあった事も、辞めた事でもちろん解消した。

この8年は楽しくもあったが、辛い数年でもあった。残されたのは、相当自信を失い、最早ポンコツとしか思えない自分でもあったから。。


さて。
私は大好きな仕事を辞めました。
だって仕事って人との繋がりだから。
人あっての仕事だから、人間として尊敬できない人と仕事してても、何も発展しないですよね。
どう思います?
それでも仕事はそういうものだろ、そういう方もいるんだろうなー。
でも、本当にそうですか??


そこに居続ける事に、力を注ぎ続ける人がいます。でもポンコツディレクターはそこから離れようと考えました。ポンコツなので、しがみつき、傷つき、使い物にならなくなってもしがみついて、ようやく何年もかかって明日も見えないにも関わらず切り捨てる事ができました。。。
ごめんよー、妻、子ども!

ま、それでも、やめちゃったんだから、上を向いて笑うしかないですわね。

まずは自己紹介。

タイトルのとおり、男性平均寿命が80才の中、いわば折り返しを過ぎて私は決意した。遅すぎる旅立ち。。
生き方を変えようと。

これまで、なんとか仕事にあり付けて、生きて来れたけど、根本をリセットさせて自分の人生を楽しく生きよう、そう考えた。これまでも何度か再起しようと色々やってみたけど、うまく行かなかった私。それでも、もうこれが最後と歯を食いしばり新たな道を模索し始めた。


まず、これを許してくれた妻と娘、家族に感謝する。本当は許してくれている訳じゃないかも、、、ただ見ているだけかも、、

そんな訳でまず自己紹介。
私は映像を作るディレクターをやっている。22の時に大学を卒業して、映画監督になりたくて、映画業界に飛び込んだものの挫折。一旦親の稼業を2年近く手伝って働いたものの、やはり映像の仕事がやりたくて、私はディレクターです!と言って、映像の派遣会社に登録。これが確か29才。(その頃、岩井俊二という映像作家が、この業界ははったりと経験だ、と言った事に触発された事もあると思う、まあ29才って時点で既に遅過ぎ〜)、そして、そこから徐々に仕事を広げ、映像の仕事を色々やってきた。ケーブル局の宣伝番組、プロモーションビデオと言われる商品や会社の映像制作、CM、コンサート撮影、イベント撮影、映画のメイキング、パチンコ台の中に流れる映像なんてのもあった。ツテをたどって仕事を探し、依頼されれば取りあえず、やる、という感じで。そして近年は民法キー局の小さな番組などをやらせて貰い、会社に就職する事もなく、流れに身を任せて仕事を頂いている。そう就職もせずに、だ。

周りの皆んなは会社に入った事ないなんて「すごいなー」などと言うけど、決してスゴくもなんともない。ただ単に映画会社に入ろうとしたら、映画制作は出来ないよ、と言われたのが始まり。その頃単館でやっていたある映画の公開日に行き、舞台挨拶に来ていた監督に助監督やらせて下さい!と頼みこみ、現場に入れて貰った。しかし、入った現場はフリーランスの集団。同級生たちはきちんと会社に就職している中で、面白い事をしたい、ずっと続けていく「仕事」だから、と思い込み、お金なんてその内入ってくると楽観的に考え、これでいいのだと、フリーランスを続けて来た。

今日この日まで。

いわばポリシーなんてない、流れに身を任せただけなのだ。そんなものだから、でもやっぱり会社に入った方がいいよな、などと考えて将来をビビって会社を探したなんて事も何度かはあった。決して門を叩く事はなかったが。。

そして今日まで、私は上に行ってやる。今に見てろよ、と今までずっとそう考えて来た。
しかし、気付けば45。年収も上がらず、名前も売れず。つまらない一介の映像ディレクター。周りを見回すと同年齢はいい役職につき、多分?ソコソコの給料を貰い、生活も安定させ、幸せな生活を築いている(のだろうイメージ)。

今やっている仕事など、ひとまわりも年齢が下のディレクターが仕切っている現実。。。

事ある毎に「偉くなってやる、上に行ってやる」そう思い続けてきた、この生活。
でも、私はこの言葉に、ディレクターとして実力が付いていない自分自身を垣間見ると同時に、間違えがあるのではないかと、ふと考える。

上とか下じゃない??
私の幸せってなんだ?
偉くなると何なんだ?
それはその業界での事に限られるのでは?
俺が目指してるのはそこなの?
これって業界で地位を築くって言葉じゃないの。。。
俺の業界って??

これ、実は多分この年代が陥りがちなロジック。会社で昇給しない人や、仕事が行き詰まった時に落ち込んだ人が、これを考える年代。そう、そういう年代なのだ。45なんて、仕事が少しできるようになっただけで、社会人になった頃と対して中味は変わってないのに、周りからの対応が変わり、きちんと仕事ができないとやたらとネガティヴになり自己嫌悪に陥る。

 そして、自分って何なの?と今更ながらの自分探し今更ながらの中2病

今更ながら、大会社に寄り添っている事での安堵感を感じつつ、それと引き換えに無くして来たものに心がきしみ始めた昨今

何とかしなきゃ、これじゃ老後は娘に世話をしてくれと言ってるようなもんだ。いや、今の娘も育てられない。とマジメに人生を見て向き合い出したのが、ここ数年前。

仲の良かったプロデューサーに「ディレクターって年を取ったらどうなるんですかね?使ってくれたりするんですかね?」と聞くと、「使わねえよ」というたった一言の一刀両断。瞬殺。

ガツンと頭を殴られた感じがして、もうやるしか無いと踏み切ったのだ。

もう映画監督なんてなれないよ。。。ならば、いっそのこと違う仕事をした方が良いのではないか?って。

恥ずかしい話だ。45にもなって。

見回すと何も残ってない。残ってるのはつまらない映像作品ばかり。
誇れるものなんて、周りからみればハナクソみたいなもんだ。

そして、やってやる!I can changeだ!と何年も前に言っていた米大統領の言葉を借りて、 仕事も無いのに会社を立ち上げた。若い頃の「オレ、ディレクターです!」って言うのと同じで。

 

とまあ、ザックリとした自己紹介はここまで。


そんな私が思いついた「よくある事」。それは

「何かひとつでも、人の力になる事はできないのか?」

ってこと。東日本大震災を体験し(東京ですが)、多分多くの人がそうだったように、今のままでいいのか?そう感じた方が多かった中、4年もの期間を経て思いついたのが、このダメさ満載のブログ。

ある時、友人に自分が作った映像をみせたら、お前はこのダメさを追求しろって言われる。ならばそういう自分をここに晒していくってのも有りか?と考えた。

ダメな私を見て、こんな奴が生きていられるなら大丈夫だろ、と見てくれた方が新たな一歩を踏み出す力になれたら、私も本望。

 

そんな想いからこのブログを始める事にしました。


これから、このブログは何処へいくのやら。何でもいいからやらなきゃって、好きなバンドの歌に心を押され、表に出る事にしたのです。

長くなりましたが、そんな訳で、

皆さんよろしくお願いします。

 

 

ようやく目の前にあったやりたい事を踏み出した。

さて、もう一歩いくぞー。
皆んな何かで歯を喰いしばって頑張ってるのだから。